立教大学の鳥飼玖美子先生の「TOEFL/TOEICと日本人の英語力」を読み、その中で日本人の試験や資格に対する態度について考える機会を得ました。
この本を通じて著者には、日本人の英語および英語テストに対する付き合い方の異常さについて明らかにする意図があると感じました。その付き合い方を著者は、英語という言語に対する「バランス感覚」という言葉を使って表現しています。
その著者の考えは、以下のような記述にまとめられると思います。
「英語について『たかがスキルじゃないか』と言いつつ、内心は英語に対する憧れと焦燥で揺れているような複雑な心理状態では、心を開いて英語を学ぶことなど難しい。自分は何のために英語を学ぶのか、を考えることが第一歩であり、その上で、資格に踊らされることなく、本当の意味での実力をつけることが、地球語としての英語をコミュニケーションのために駆使することを可能にするのである。」
この本の中には、この「バランス感覚」の歪みの具体例が紹介されています。
読んでいて面白いと思ったエピソードとして「日本人の資格好き」のエピソードがありました。
日本人の留学希望者に対して、アメリカの大学の担当者が自らの大学のPRに来た時に、ある日本人の留学希望者から、「貴校を卒業するときに、何か資格を得ることができるのでしょうか?」という質問を受けたとのことです。その質問を受けた担当者は困惑して、「資格って、例えばどういうことですか?」と聞き返します。それに対して、「コンピューターでも何でもいいんですけど、科目をとったら資格が取れるのかってことです。」との答え。アメリカ人担当者は「何か目的があって証明書が必要なのですか?大学で勉強して資格って、どういうこと?」と聞き返し、話が全然かみ合わなかったというものです。
まさに、このエピソードこそ、日本人の「能力」と「資格」に関するバランス感覚を象徴的に明らかにするものだと思います。
目的はあくまでも「大学で何を学ぶのか」ということ、そして資格は、自分が学んだことを身に着けているかの証明に過ぎない。
つまり、「大学で学びたいことがない」のであれば、大学に行く必要もなく、ましてやその資格など何の意味もないはずなのに、、、ということです。
しかし、日本ではまず「資格」の存在にこだわるという姿勢が当たり前になってしまっています。
確かに一昔前は、「英語を身に着ける」という目的は、実は「大学で学びたいことがない」のに大学に行く学生と同じくらいにあいまいな目的であることが多かったと思います。
しかし、昨今のグローバル化を考えれば、特に企業人としての「英語を身に着ける」という目的は、非常に具体的な目的となってきているはずです。それはあくまでも「英語で商売ができる英語を身に着ける」というはっきりとした目的です。そうであるならば、多くの企業は、すぐにでもこの英語と資格についてのバランス感覚を身に着けることが必要なはずです。
また、この本の中であげられた例ではないのですが、日本においては「英検二級はTOEICでは何点?」というような「テスト対比好き」現象があります。
英検だけでなく、TOEFL、IELTSとの対比もあります。もちろん、このような質問をする企業の人事の方などは、TOEICという社会一般的に広く認識された基準に他のテストの結果を合わせたいという考えからだと思います。しかし、基準を合わせた後それがどういう意味を持つのかという疑問がまだ残ります。
なぜなら、基準をTOEICに合わせるのではれば、TOEICというテストがどのような力がどのように点数に評価されているのかということの考察を十分行った上での基準化でなければならないと思うからです。
TOEIC、英検、TOEFL、IELTS、それぞれのテストはそれぞれ独特の構成をとっています。特に英検は他のテストと大きく違う構成をしています。そのように、大きく違った構成によって評価されたそれぞれの区分けや点数をすり合わせることにどのような意味があるのかということを考える必要があると思います。
もし、この意味をはっきりと意識していないのであれば、すなわち、そもそもその試験で英語のどういった能力を測りたいのかという、前提がはっきりしていないということの表れではないかと思うのです。企業も自らの社員に求める「英語力」のイメージがきちっとできているのであれば、そのような現象は起こりえないはずです。
この点でも企業そして、日本人全体として、この英語と資格についてのバランス感覚を身に着けることの必要性を再確認すべきかと思います。
そのことはすなわち、著者のいう「資格に踊らされることなく、本当の意味での実力をつけることが、地球語としての英語をコミュニケーションのために駆使することを可能にする」ということを自然体で受け入れられるような英語学習者になるということだと思います。